« 新ドラマ峰打ち8<歌のおにいさん | トップページ | なんだかねえ… »

2009年1月17日 (土)

阪神大震災から14年

満月の夕~90’s シングルズ Music 満月の夕~90’s シングルズ

アーティスト:ソウル・フラワー・ユニオン,ソウルシャリスト・エスケイプ,ドーナル・ラニー・バンド
販売元:Sony Music Direct
発売日:2008/03/19
Amazon.co.jpで詳細を確認する


↑今日TCで放送しましたが…「満月の夕」は
震災後、作られた曲。1月17日の夜は良く晴れて
満月が煌々と震災で崩壊した町を照らしていました。

そしてもう1曲、「美し都」は、KissFMでも
復興のテーマ曲として…毎日流れていた曲でした。
アマゾンでシングル購入できるみたいです

そう。14年でっせ。
震災後、生まれた子も、中学生。
そろそろ受験も気になるお年頃。
あの頃、ディレクターデビューもしてない
ADだったのに、もお現場では年長さん(苦笑)。

月日の経つのは速いものです。

でも、あの朝…自分の部屋のこたつに
もぐって耐えた数十秒(に感じた)大きな揺れは
今でも覚えています。不気味な音も。
大阪湾を挟んだ対岸の泉州なので、
震度7を体感した阪神間の人々とは
比べ物にならないほどの小さな揺れだったでしょうが。

さっき、毎年恒例になりましたが、2001年の
1月17日に自分のHPに執筆したエッセイを
コピペして、レイアウトし直してましたが…
やはり、記憶の奥深くに忘れてしまっていた事も
少なからずありました。

昨夜、どこかの局のニュース番組で、
老朽アパートの耐震対策が、なかなか進んでいない
というレポートが放送されました。

阪神があり、中越があり、東北でも…
大きな地震がこの14年に幾つもありましたが
やはり…体験しないと、この恐ろしさは
理解できないのでしょうか。

もしかすると、放送現場でもそうかもしれません。

関西や新潟の局の人間は
”とっさ”の判断が効くでしょうが、他地方では
どうでしょう?
毎年、防災企画などで…いろんな番組が制作
されています。今日も、北海道などでは合同企画が
放送されたようです。

地震を始めとする災害時、伝えるべき事は?

なぜだか3度も経験した(苦笑)身としては…
あ。大停電を入れると4度か…
反射神経のごとく身に付いてる…
はずです。

あの夜…
802の廊下で小さなTVでは、闇夜に燃える
神戸の街の映像に、続々と増える死者数の
テロップだけが不気味に映されていました。
それをメモし続け、スタジオ内のマーキーに
手渡す…その往復。つらかった。

震災関連情報。ボランティア情報。取材レポート。
何ヶ月続いたでしょう。

御影公会堂そばで、なんとか営業再開したばかりの
ラーメン店。その、なんと美味かった事か。

鶴岡のスターン草島さん!
覚えてますかー?

あと数時間で、また、東遊園地は…
竹灯篭にロウソクの灯りを灯す人たちの
遠くを見つめる眼差しが…集うことでしょう。

14年前の経験は…大きすぎるくらい大きい。

黙祷。

(では、下へ続く)

「1・17に想ふ(「ふぐ政の部屋」より転載)

前の晩、本番終了後、先輩ADと春改編での自分達の動きなど
シリアスな話を遅くまでしていた。
深夜1時半頃帰宅。風呂に入り、2時過ぎ就寝した。
目覚めたのは、いわゆる初期微動の時。ゴオ~っという地鳴り。
瞬時に地震だと察知して上体を起こしたとき、グラッときた。
反射的にベッド横のこたつにもぐり、揺れが収まるのを待った。
30秒~1分、息を殺した。
最初に思ったのは「近畿でこれなら関東は壊滅的だろう」と。
近畿で大地震という概念は無かった。

こたつから出てまずやったのが、自宅、近所の被害確認。
そして、すぐ電話をスタジオにかけた。
後輩ADに「貝塚!震度5くらい。瓦が落ちた」。
その時、兄は両親の部屋に駆けつけ、家具を押さえてた。
私が電話してる後ろで、落ちた小物の整理をしていた。
自分の「職業病」を恨んだ。

外に出ると、向いの家の石垣が道路に崩れていたので、
父親、兄と横によけたりした。
NHKのテレビニュースを見ながら朝食。
それまで空白だった神戸に「震度6」が表示された。
近所の叔父が来て「その瞬間」を話してると
NHK神戸放送局前の中継が入った。
ビルが傾き、遠くで煙が昇っていた。
やがて、関西テレビのヘリが、崩れた「阪神高速神戸線」を捉えた。
記者は絶叫していた。

これは大変な事態だと思ったが、
交通機関が断絶していたので事務所に電話を
入れようとしても、電話は繋がらなかった。
じっと映像を見るしかできなかった。
802は、速報を入れるものの通常番組だった。

昼前、ニュースではJR阪和線が動くと報じた。
「しゃあない。いちおう駅まで行くわ」。
そう言って家を出た。駅の公衆電話で局に電話した。
つながった。「電車が動きそうなので、始発で向かいます」。
直後に、検査の試運転が徐行し、10分ほどして電車が来た。
携帯ラジオでラジオ関西(AM神戸)を聞いていた。
ある社員が漁師にお願いして、姫路から小船で
須磨の海岸まで乗せてもらったとレポートした。
中継、燃えさかる火事の現場から。
記者が立ち尽くす男性にマイクを向けた。
「あの中に父がいてるんですわ…どうもでけん」
記者は絶句していた。
「これは覚悟しなければ」満員電車の中で思った。

谷町線が止まってたので、天王寺から動物園前まで
歩き、堺筋線で802へ向かった。
午後2時頃、802に着くと、フロアは普段どおりだった。
スタッフがみんな5台並ぶモニターテレビの前で
たむろしていた。
ふと備品ラックを見ると2,3枚のポラが貼ってあった。
その直後の様子だった。
ぐちゃぐちゃになったラックの前で片付けるようすだった。
ライブラリーに行くと、まだ整理中だった。
ほとんどのCDが落ちたらしい。
興奮してるうちに番組の時間が近づいてきたが、
プロデューサーは覚悟していた。
「番組全部つぶれるやろな」

編成の協議が終わって、現場に指示が来た。
予想どおりだった。
午後7時の時報以降、番組名無し、一般楽曲無し、
BGMなし、インスト、イージーリスニングで構成、
1曲ごとに最新情報を挿入。

先輩ADは、急遽、3時間分の静かな曲を選曲した。
プロデューサーは、編成担当と打ち合わせ、
どの情報を出すか我々ADに指示していた。
犠牲者数、ライフライン、関電、大阪ガスからのパブ、
交通機関の状況。
DJのマーキーも険しい表情だった。

午後7時。整然とマーキーが臨時編成突入を告げ、
番組が始まった。
スタジオ前にはTVが置かれ、随時、その情報も
スタジオ内に送られた。
報道デスクの共同通信の原稿、デスクの手書き原稿、
ライター、我々ADの原稿…次々、スタジオ内へ。
張り詰めたまま、時間が過ぎた。
時折、余震が襲い、どきっとした。
その速報もすぐさま出した。
犠牲者、行方不明者の数は、どんどん増えた。
恐ろしくて鳥肌がたった。つらかった。
3時間が終わった時、いっきに疲れが襲った。

マーキーもプロデューサーも、いつもにないくらい、
そそくさと帰宅した。
どっちにしても、帰宅してる余裕もなかったので、
臨戦体制をとり、すぐ前のビジネスホテルに泊まることにした。

朝のジーン担当のADに、電話番号を告げた。
いつでも、電話してくれと。
ホテルの部屋でも幾度となく、余震に怯えた。
とりあえず、電話は無く、朝を迎えた。
やけに爽やかな朝日だったことを今でも覚えている。

それから1週間ほど、特別編成は続いた。
ひとりのDJの呼びかけから、
歩いて神戸に物資を運ぼうという運動が実施された。

通常編成に戻っても、震災報道は続いた。
よその番組にないほど、我々は議論した。
我々は「助けてもらう側」に立つのか?「助ける側」なのか?
地元神戸は、当事者に違いない。
しかし、大阪はどうなのか?
北摂など被害の大きかったところもあった。
エリアは関西全域だ。
議論は続いたが、結局、「助ける側」に立つことにした。

「苦しむ人たちに何かしてあげよう!」
そう思う人たちに必要な情報を「送る」。
その立場に徹した。
他の番組には、曖昧な所もあったが、
「FUNKY EXPRESS」は、そうした。

情報は、春先まで続けられた。

その中、神戸への取材も何度か行なった。
最初は、JRが芦屋まで開通した2月頭の日曜。
車窓に続く、青いビニールシートが瞼に焼きついた。
芦屋からはバスで2時間かけて三宮に。
実際、その光景を目にして絶句した。
センター街に日が差していた。
「ここは暗くなくてはいけないのに。人がひしめきあってないと…」
お店の人たちにマイクを向けた。
拒絶する人、やさしく話す人、
そして、自分に気合を入れるように話す人。

他所の土地から来る人が、
あたかも観光するかのように、崩れた町を見るのがいやだ
と語った人が印象的だった。

自分の行動も間違ってるのか?
南京町は、屋台がたくさん出ていた。
はっと気づいた。
神戸に来ることは、間違いじゃない。
ここで、「お金を落とす」ことだけでも復興になるのだ。
「何かをしてあげようと思う人たち」への番組としては、
自分の企画は、正しいのだ。
その時、「ここの人たちと、いっしょに復興したい」と思った。

あれから6年。
もうあの出来事は過去になっている。
全国ネットでの番組もめっきり減った。

しかし、
私のように、ほとんどの「関西人」は、
あの「瞬間」あの「日」あの「冬」のことを
克明に覚えているはずだ。

「太平洋戦争」みたいな「歴史の過ち」と違い、
「天災」をいつまでも、じくじく振り返るのは、つまらんことだ…
そう言う人もいるかもしれない。

しかし、あの時感じた「つらさ」「人のやさしさ」
そして嫌な面、備え、判断、対応…いろいろな事を
神様は教えてくれたのだと思う。

人は忘れやすい動物。
だからこそ、あの日に遭遇した我々は、
1日でも、「貴重な経験」を再確認していきたい。

そして、あの日、失ったものへの「想い」を
噛み締めたい。
(01・1・17)

|

« 新ドラマ峰打ち8<歌のおにいさん | トップページ | なんだかねえ… »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/11256/27205256

この記事へのトラックバック一覧です: 阪神大震災から14年:

« 新ドラマ峰打ち8<歌のおにいさん | トップページ | なんだかねえ… »