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2008年1月17日 (木)

日付変わって1月17日です…

今年もまた、この日が来ました。

あの日以来、本当のお正月は…
1月18日のような気がしています。

ココ新潟では、
2004年、2007年…と2回も
大きな地震を経験しています。

たまたま、中越の時は、
週末の神戸の番組の為に、
関西へ帰っており、あの揺れは
経験していませんが、中越沖の時は、
ちょうど出勤前の支度中で、出勤後も
速報に追われました。

全国の多くの人には、
本当の意味であの揺れと、その後の
経験は理解出来ないかもしれません。

ただ、想像して頂く事は出来ると思います。

毎年の事で申し訳無いですが…
芸が無いですが…
2001年の1月17日に執筆してHPに
乗せた文章を、今年もまた、下に
乗せておきました。

ご一読頂ければ…。

あと数時間で、14度目のあの時刻になります。

あらためて…黙祷。

キキさんち…マンション2Fで揺れに遭ったそうです。
GreenTeaTime…アパートで被災、避難経験されたようです。
里紀さんち…当日神戸に行ってたはずだったそうです。
WorldWideWingさんち…4歳当時被災されたそうです。
どんたさんち…震度6を経験されたそうです。
mintyさんち…当日大変な揺れを経験されたそうです。
         メイン記事からジャンプしたら手記が読めます。

2001年1月17日
「ふぐ政の部屋(HP)」にUPしたものの
再録です。

「1・17に想ふ」
前の晩、本番終了後、先輩ADと
春改編での自分達の動きなどシリアスな話を 遅くまでしていた。
深夜1時半頃帰宅。風呂に入り、2時過ぎ就寝した。
目覚めたのは、いわゆる初期微動の時。

ゴオ~っという地鳴り。
瞬時に地震だと察知して上体を起こしたとき、グラッときた。
反射的にベッド横のこたつにもぐり、揺れが収まるのを待った。
30秒~1分、息を殺した。
最初に思ったのは「近畿でこれなら関東は壊滅的だろう」と。
近畿で大地震という概念は無かった。

こたつから出てまずやったのが、自宅、近所の被害確認。
そして、すぐ電話をスタジオにかけた。
後輩ADに「貝塚!震度5くらい。瓦が落ちた」。
その時、兄は両親の部屋に駆けつけ、家具を押さえてた。

私が電話してる後ろで、落ちた小物の整理をしていた。
自分の「職業病」を恨んだ。
外に出ると、向いの家の石垣が道路に崩れていたので、
父親、兄と横によけたりした。
NHKのテレビニュースを見ながら朝食。
それまで空白だった神戸に「震度6」が表示された。
近所の叔父が来て「その瞬間」を話してると
NHK神戸放送局前の中継が入った。
ビルが傾き、遠くで煙が昇っていた。
やがて、関西テレビのヘリが、崩れた「阪神高速神戸線」を捉えた。
記者は絶叫していた。

これは大変な事態だと思ったが、
交通機関が断絶していたので事務所に電話を入れようとしても、
電話は繋がらなかった。
じっと映像を見るしかできなかった。
802は、速報を入れるものの通常番組だった。

昼前、ニュースではJR阪和線が動くと報じた。

「しゃあない。いちおう駅まで行くわ」。
そう言って家を出た。
駅の公衆電話で局に電話した。
つながった。
「電車が動きそうなので、始発で向かいます」。
直後に、検査の試運転が徐行し、10分ほどして電車が来た。

携帯ラジオでラジオ関西(AM神戸)を聞いていた。

ある社員が漁師にお願いして、
姫路から小船で須磨の海岸まで乗せてもらったと
レポートした。中継、燃えさかる火事の現場から。
記者が立ち尽くす男性にマイクを向けた。

「あの中に父がいてるんですわ…どうもでけん」
記者は絶句していた。

「これは覚悟しなければ」満員電車の中で思った。

谷町線が止まってたので、
天王寺から動物園前まで歩き、堺筋線で802へ向かった。

午後2時頃、802に着くと、フロアは普段どおりだった。
スタッフがみんな5台並ぶモニターテレビの前でたむろしていた。

ふと備品ラックを見ると2,3枚のポラが貼ってあった。
その直後の様子だった。
ぐちゃぐちゃになったラックの前で片付けるようすだった。
ライブラリーに行くと、まだ整理中だった。
ほとんどのCDが落ちたらしい。

興奮してるうちに番組の時間が近づいてきたが、
プロデューサーは覚悟していた。
「番組全部つぶれるやろな」
編成の協議が終わって、現場に指示が来た。
予想どおりだった。

午後7時の時報以降、
番組名無し、一般楽曲無し、BGMなし、
インスト、イージーリスニングで構成、1曲ごとに最新情報を挿入。

先輩ADは、急遽、3時間分の静かな曲を選曲した。
プロデューサーは、編成担当と打ち合わせ、
どの情報を出すか我々ADに指示していた。

犠牲者数、ライフライン、関電、大阪ガスからのパブ、交通機関の状況。
DJのマーキーも険しい表情だった。

午後7時。
整然とマーキーが臨時編成突入を告げ、番組が始まった。
スタジオ前にはTVが置かれ、
随時、その情報もスタジオ内に送られた。
報道デスクの共同通信の原稿、
デスクの手書き原稿、ライター、
我々ADの原稿…次々、スタジオ内へ。

張り詰めたまま、時間が過ぎた。

時折、余震が襲い、どきっとした。
その速報もすぐさま出した。
犠牲者、行方不明者の数は、どんどん増えた。
恐ろしくて鳥肌がたった。つらかった。

3時間が終わった時、いっきに疲れが襲った。
マーキーもプロデューサーも、いつもにないくらい、そそくさと帰宅した。

どっちにしても、帰宅してる余裕もなかったので、
臨戦体制をとり、すぐ前のビジネスホテルに泊まることにした。

朝のジーン担当のADに、電話番号を告げた。
いつでも、電話してくれと。
ホテルの部屋でも幾度となく、余震に怯えた。
とりあえず、電話は無く、朝を迎えた。
やけに爽やかな朝日だったことを今でも覚えている。

それから1週間ほど、特別編成は続いた。
ひとりのDJの呼びかけから、
歩いて神戸に物資を運ぼうという運動が実施された。

通常編成に戻っても、震災報道は続いた。

よその番組にないほど、我々は議論した。
我々は「助けてもらう側」に立つのか?
「助ける側」なのか?
地元神戸は、当事者に違いない。
しかし、大阪はどうなのか?
北摂など被害の大きかったところもあった。
エリアは関西全域だ。
議論は続いたが、結局、「助ける側」に立つことにした。

「苦しむ人たちに何かしてあげよう!」
そう思う人たちに必要な情報を「送る」。
その立場に徹した。
他の番組には、曖昧な所もあったが、
「FUNKY EXPRESS」は、そうした。

情報は、春先まで続けられた。

その中、神戸への取材も何度か行なった。
最初は、JRが芦屋まで開通した2月頭の日曜。
車窓に続く、青いビニールシートが瞼に焼きついた。
芦屋からはバスで2時間かけて三宮に。
実際、その光景を目にして絶句した。
センター街に日が差していた。
「ここは暗くなくてはいけないのに。人がひしめきあってないと…」
お店の人たちにマイクを向けた。
拒絶する人、やさしく話す人、
そして、自分に気合を入れるように話す人。
他所の土地から来る人が、
あたかも観光するかのように、
崩れた町を見るのがいやだと語った人が印象的だった。

自分の行動も間違ってるのか?

南京町は、屋台がたくさん出ていた。
はっと気づいた。
神戸に来ることは、間違いじゃない。
ここで、「お金を落とす」ことだけでも復興になるのだ。
「何かをしてあげようと思う人たち」への番組としては、
自分の企画は、正しいのだ。
その時、「ここの人たちと、いっしょに復興したい」と思った。

あれから6年。
もうあの出来事は過去になっている。
全国ネットでの番組もめっきり減った。
しかし、私のように、ほとんどの「関西人」は、
あの「瞬間」あの「日」あの「冬」のことを
克明に覚えているはずだ。
「太平洋戦争」みたいな「歴史の過ち」と違い、
「天災」をいつまでも、じくじく振り返るのは、
つまらんことだ…そう言う人もいるかもしれない。

しかし、あの時感じた「つらさ」「人のやさしさ」
そして嫌な面、備え、判断、対応…いろいろな事を
神様は教えてくれたのだと思う。

人は忘れやすい動物。
だからこそ、あの日に遭遇した我々は、
1日でも、「貴重な経験」を再確認していきたい。

そして、あの日、失ったものへの「想い」を噛み締めたい。

(01・1・17)

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